-------------------------------------------------- ■ 東京山月記 -------------------------------------------------- 「七時までに明日の印刷所のチェック、それが済んだら来週からの新コーナーについての会議資料の作成……」  デスクに貼り付けたメモ書きを一瞥して、溜め息をついた。まだまだ仕事の終わりそうに無いデスクの上は混沌としていて、ノートパソコンを囲う塀のようにファイルやら雑誌のバックナンバーやらが積みあがっている。  腕時計に目を遣ると、既に六時を回っていた。少なくともあと三十分以内に原稿周りは仕上げなければいけないが、連日の残業が祟って今にも脳がストライキを起こしそうだ。最悪、印刷所への連絡まで済ませれば多少は都合がつく。それまでは何としても倒れるわけにはいかないのだが、集中力がまるで足りない。  全く持って効率が上がらないので、五分だけコーヒーを飲みながら休憩する事にする。デスクを立ち上がり、給湯室へ歩きながら凝り固まった肩を回し、ほぐしておく。  給湯室のポットでお湯を注ぐと、いかにもインスタントな高級感漂う安っぽい匂いが鼻をくすぐる。砂糖とミルクに手を伸ばし、それでは眠気覚ましにならないと思ってやめた。匂いも苦さも好きではないブラックを、仕事のための必要経費だと割り切って飲めるようになったのはいつからだろうか。  カップを手に休憩室へと歩く。熱いコーヒーに息を吹きかけて冷ましながら、ぼんやりと窓の外の通りを眺める。夕暮れのオフィス街は疲れた背中の企業戦士で溢れている。茜色の空も相まって街全体が哀愁に包まれている錯覚を受けるが、自分もその中の一人なのだと思うと苦笑いが漏れた。  空気を入れ換えたくて、少し窓を開けた。吹き込む弱い風がペラペラとカレンダーの端を持ち上げる。気付けば春ももう終わりだ。  春は余り好きではない。もっとも大きな人生の転機が訪れた季節であって、もっとも自分の中で大きかった物が失くなった季節でもあるからだ。そのくせ、事ある毎に思い出しては溜め息をつく羽目になる。  それはカレンダーがめくれるような、そんな些細な事で想起してしまう。僕はソファに座ってコーヒーを飲みながら、もう何度繰り返したかわからない回想へと耽っていった。    ――――――――   「そういえばさ、木下って今どうしてんのかなぁ?」  付き合いは、家族を除けば他の誰より長い。幼稚園に入園する前から、中学を卒業するまで。ずっと同じ空間を共有し続けた。思春期にはそれが気恥ずかしくも思えたけれど、それなりに良い幼馴染として接していられたと思う。 「ああ、あのタカビー女?」  彼女は人より勉強も運動も良く出来た。テストや模試の度に教師は感嘆の溜め息をついていたし、スポーツだって運動部の補欠程度なら勝負にもならなかった。文武両道の優等生と、多くの生徒は嫉妬と皮肉を込めてそう彼女を呼んでいた。 「そうそう、いっつも独りなのに調子乗ってたアイツ」  余りにも出来の良い彼女を黙って見ていられる程、周りの生徒は嫉妬慣れしていなかった。トイレで水をかける、挨拶に誰も返事をしない。挙句の果てには「今回はどの先生と寝たの?」と下卑た笑いを浮かべながら聞く女子のボスと、その取り巻き。 「知らないよ。あんだけ大口叩いてたんだから、早稲田とか東大でも行ってんじゃないの?」  そして彼女はそれに一度も屈した事は無かった。ホースで水をかけた女子を追い回し、挨拶など返されなくても一人で黙々と勉強する。「誰と寝たの?」の質問に「教師と寝て良い点が取れるなら、アナタが赤点を取るわけ無いじゃない」と言い返した事もあった。 「案外、今頃ニートだったりして」  くだらない冗談に、何それウケるー、と女子が沸く。僕はちっとも笑えなかった。それよりも、その冗談を言った張本人がロクに練習もしないで遊び歩いているお荷物部員な事の方が面白い。でも、恐らく女子はそこまで深く考えてはいないのだろう。単純に気に食わない女を馬鹿に出来た事が楽しくてしょうがないのだ。股の緩みきった自分の、その生涯をかけても適わないような女を馬鹿に出来た事が。  一番長く付き合っている割に、僕は彼女を庇ったりする事は出来なかった。僕は彼女のように強くなかったから、怖かったのだ。大切な幼馴染を傷つけ、馬鹿にするようなクラスメイトでも、笑顔を作って尻尾を振らなければいけなかった自分の弱さが、今は酷く恥ずかしい。  ただ、一番付き合いが長くても、一番彼女を理解している自信は無い。それは別々の高校に進学してから大学受験を控えて、自然と疎遠になったからかもしれないし、もしかしたら自分と違って何でもソツなくこなす幼馴染が無意識にコンプレックスになっていたからかもしれない。    自分は彼女の何を知っているか、と問われたら、すぐに答えを返す事は出来ない。    まだ幼稚園にすら入園していなかった頃だった。スコップを取られて砂場にへたりこみ、ただ泣いていた自分。そんな自分の前に颯爽と現れ、一つか二つ年上のいじめっ子にも臆せずかかって行く彼女。やがて全身の擦り傷に涙を流しそうになりながら、僕に取っ手の欠けたスコップを差し出した。  彼女の名前は、木下澄子と言った。どこにでもあるようなありふれた名字と名前だが、当時の僕には彼女はまるで日曜の朝から放送しているヒーローのようにさえ感じたのだ。実際彼女の活発さと運動神経の良さ、そして真っ直ぐな正義感はヒーローと呼ぶに相応しかったし、彼女自身もそれを悪くは思っていないようだった。  男女間の付き合いに付随する気恥ずかしさなど、まるで知らない無邪気な年頃。その事件をきっかけに一緒に遊ぶようになり、次第に仲良くなって行くのにさほど時間は要らなかった。気がつけば母親同士も打ち解け始め、家族ぐるみの付き合いが始まるのも自然な流れだ。  殆ど記憶の残っていない幼稚園以前から、「幼馴染」と言う微妙な関係が妙にむず痒く感じるようになる中学生の頃まで、僕と澄子はずっと気の置けない友人として付き合い続けた。学校では彼女は優秀で、かつ妬まれ疎外されていたから、学校の外でなければ視線を交わす事もままならなかったけれど。  それでも彼女は強かった――と思っていた――し、彼女も勉強や運動の平凡極まりない僕が自分と同じように振舞えない事を理解していたから、放課後に一度家に帰って同級生の目を気にし、繁華街から離れたファーストフード店で二人でフライドポテトをつまむ事も、さして理不尽には感じていなかった。  出会ったあの日の泣きながら母親の元に駆けて行くいじめっ子など、もう名前すら覚えていない。けれど、あの時差し出されたプラスチックのスコップと、どこか誇らしげにベソをかく姿が、十数年経った今でも瞼に焼きついて消えないのだ。    それだから、彼女が市内の公立ではなく、県外の私立進学校を受験すると聞いた時には、僕は酷く驚いた。てっきり高校も今までと同じように、少しだけ人目を気にしながら二人で過ごしていける物だと思っていたからだ。 「もっと、レベルの高い所を目指したい」と、彼女は言った。少なからず、疲れていたのかもしれない。何に? 嫉妬ばかりで努力をしようとしないクラスメイトの攻撃だろうか、それともそのクラスメイトに向かい合う事も出来ない僕にだろうか。もしかしたら本当に、いや、彼女は向上心のある人間だったから、本当に高みを目指して受験したのかもしれない。  けれど確かなのは、お互いが高校生になってからは確実に連絡を交わす機会が減った事と、自分の希望通りの有名進学校に通う彼女が、弱気になってランクを落とした平凡な公立高校に通う僕には急に手の届かない存在になってしまったような気がした事。自転車を走らせれば十分ちょっとで家に着くのに、何故か近寄り難い気まずさを僕が勝手に感じてしまった事。  結局なし崩し的に疎遠になってしまって、大学二年生になった今、今更ながら彼女の現状に想いを馳せてみたりしている。    彼女と連絡を取らなくなったのは、高校二年生頃からだったと思う。  それまではいつも日に数通はメールをやり取りしていたのに、ある日から少しずつ、メールの返信が遅れるようになった。寝る前に送ったメールの返信が翌朝届くようになり、次第に学校に行く直前、休み時間、昼と遅くなっていく。一日に一通が、三日で二通。週に三通。本当にゆっくりと、けれど確実に。片手で打つ愛の言葉――ただし恋愛ではなく親愛――は届きにくくなっていく。  「受験勉強を始めたから」と、或る日メールが来た。ゲームセンターの帰りだった。左手にUFOキャッチャーで取ったライオンを持ちながら、右手でケータイを握る。 受験勉強と言う四字熟語はその時の僕にはまだ実感が無くて、志望校どころか自分が何をしたいのかさえ明確では無かった。けれど彼女は、将来についての明確なビジョンを既に持っているのだろう。いきなり壁を突きつけられたような気がして不貞腐れて、その日は返信も思いつかずに布団に倒れこんだ。  結局何を返信したのかは覚えていない。ただ、それからはメールが来なくなった。「受験勉強」と言うのは、メールを送ってくるなと言う拒絶をオブラートに包んで伝えられる便利な言葉だと悟った。悟ると同時に、自分が何か拒絶されるような事を言ったかと自責の念に駆られるようになった。が、心当たりは全く無い。最終的には、彼女は本当に受験勉強を始めたのだと自分に言い聞かせ、不安を押し殺した。  次第に僕の学校でも教師が「受験勉強」と言うフレーズを使い出すようになり、学年が上がって本格的に受験が目の前に迫ってきて、オープンキャンパスだの予備校選びだのと進学が現実味を帯びていった。その代わりに、ケータイに残る使わなくなったアドレスへの関心は、日増しに薄くなっていく。  たまにメールを送って近況を聞こうと思っても、何度も送信ボタンを押しては取り消してを繰り返す。きっと彼女も今は大変な時期だろうから……と責任を押し付け、自分の臆病な心から目を逸らす。また返信が無かったら、十数年前の彼女の雄姿から始まる全てが霧散してしてしまう気さえしたのだ。  そして時間はあっという間に流れる。やんややんやとようやく受験生の実感が湧き始めたような頃には二月も下旬、流されるままに受験を終えた僕は、第二志望の中堅私立大へと進むことになった。  ひとまず進路が決まって良かったと安堵の溜め息を付き、三月になって卒業を間近に控えると、急に彼女の事が気にかかった。それと同時に、自分が今まで自分の事しか考えてなかったように思えて(実際にそうなのだけれど)、自然消滅したとは言え彼女に労いの言葉の一つもかけていない事がたまらなく悔やまれた。今からでも遅くない、そう思って久し振りのメールを書き、送信ボタンを押す。取り消しボタンを押さないように、送信ボタンを押してすぐにケータイを布団の上に放り投げた。  返信はすぐに返って来た。ケータイを布団に放り投げ、返信には時間がかかるだろうから漫画でも読もうか、と本棚に手を伸ばした頃。余りにも返信が早いので、驚いた後に布団に飛びかかるまでに一瞬呆けてしまった。飛びつくようにしてケータイを取り、ディスプレイを開く。 「mailer daemon メールが送信出来ませんでした」  理解が追いつかなかった。数年使い続けたケータイが壊れたと思い、何もこんな絶妙のタイミングで壊れなくても。と溜め息をついた後に、ようやく彼女が変更したメールアドレスを僕に教えていないのだと気付く。いくら受験勉強でメールを送ってなかったからと言って、アドレス変更を伝えないのは酷いのではないか。しょうがないので再びアドレス帳を開き、今度は直接電話をかける。会おうと思えば会えない距離でも無いのに、随分と久し振りに聞く彼女の声だ。自然とケータイを握る右手が汗ばむ。発信してすぐに、大人びた女性の声が返って来た。 「おかけになった電話番号は、現在使われておりま」  全てを聞く前に、ケータイを布団に叩きつけた。アドレスを変えたどころか、ケータイを解約してやがる。連絡しなかった自分にも非は大いにあるとは言え、幼馴染に対して少しばかり仕打ちがキツイのではないだろうか。  余りにも唐突に突きつけられた絶縁に対して、やりどころの無い怒りが込み上げて来る。このまま彼女の家まで自転車を走らせ、玄関から怒鳴り込んでやろうか。出来もしないのにそんな事ばかり考えて、気が付けば疲れて寝てしまった。  翌朝目を覚ますと、体には昨夜のハイテンションによる疲労と、自分はもう絶縁を無連絡で申し渡される程度の人間なのだと言う絶望だけが残る。せっかく受かった大学から届いた入学手続きも書く気がしない。そう言いつつも次の日には入学書類を書き、一週間後には高校を卒業して、春休みを友人と遊んで過ごしていても、どこかで自分は幼馴染に見捨てられる程度の人間なのだと心が痛んだ。理由などわからない。彼女の家に直接行ってそれを聞く事も出来た。けれどその時の僕には、それが余計わかりもしない彼女の心を逆撫でするのではないかと言う心配しか出来なかったのだ。    僕は大学に入学した。特に何も無い授業とサークルとバイトだけの大学生活。  そうして特に単位を落とす事も無く二年生に進級し、日々の生活にも慣れと飽きを覚え始めてきている。    ――――――――   「そういえば、木下って今どうしてんのかなぁ?」  サークルの友人に唐突にそう切り出されたのは、昼休みの空き教室での事だった。中学の頃のクラスメイトだったそいつは、高校に進学した時にはもう会う事も無いだろうと互いに思っていたらしく、サークルで自己紹介を交わした時に酷く驚いた事を覚えている。  それなりに大きな教室は、次の時間の教養科目を受ける生徒で賑わい始めている。年度が変わって多学部が増えたからか、見ない顔も多い。同じ学校に通っていたのが不思議なくらいの違和感を感じるようになった。 「ああ、あのタカビー女?」  僕の席の隣の隣、友人を挟んだ向こう側の男が友人に同調した。黙って頷く友人とこの男は、中学時代からの部活仲間らしい。友人を通じて知り合うまで一度も話したことが無かった僕とそいつは、いつも微妙に落ち着かない気分になりながら当たり障りの無い事を話す。 「そうそう、いっつも独りなのに調子乗ってたアイツ」  友人が同調に気分を良くしながら言葉を続けると、後ろの席の女子も口々に彼女の悪口を言い始めた。高飛車、不細工、ヤリマン。事実を言い当てているかはどうかは、この女子連中にはさほど問題ではない。実際彼女は正義感は強くとも高飛車ではなかったし、ルックスだって今目の前にいるケバケバしい奴等よりは遥かにマシだ。ヤリマンがどうのだって、この女子らが勝手にそう噂を流していただけに過ぎない。 「知らないよ。あんだけ大口叩いてたんだから、早稲田とか東大でも行ってんじゃないの?」  自分達から外れている。自分達より秀でている。そんなつまらない事で嫉妬され、足を引っ張られた彼女はさぞ迷惑だったに違いない。 「案外、今頃ニートだったりして」  彼女を知らない筈の別の友人までもが、横からそう口を挟む。どうせある事無い事吹き込まれたか、ここで女子に対して点数稼ぎがしたいのだろう。女子連中は声を上げて笑った。僕はちっとも笑えなかった。笑って適当に同調しておこうと言う気すら起きない。ただただ余計な事を言ってしまわないように、口を真一文字に結んで押し黙るだけだ。 「エンさん、どうしたのさ。そんな怖い顔して」  遠藤三郎、略してエンさん。何故か小学生の頃から続く、他でもない自分のあだ名であるけれど、今はそう呼ばれるのが酷く気に食わなかった。いや、名前が気に食わないわけじゃない。こいつらに声をかけられる事自体が不快でしょうがない。  笑いながら尋ねてくる一人に何でもないよと返事をして、一応は体調が悪いようにでも見えるように頭を抱えておく。    ――もし彼女が僕なら、きっとこいつらを咎めるんだろうな。    目の前の集団が嘲笑っている対象の張本人を頭に思い描く。自分が陰口を叩かれるのは平気な顔で流すくせに、別のクラスメイトが虐められなどしたら一人でだって相手に詰め寄っていく。だからイジメをステイタスにするような頭の弱い奴からは彼女は疎まれていた。最強の矛すら殴り飛ばす最強の盾。  けれど僕には、彼女のような真似は出来ない。腐りかけた木の盾なんかじゃ、ただの鉄の矛にすら太刀打ち出来ない。強い生き方は確かに憧れる物ではあったけれど、ただの一般人な僕には現実味が無さ過ぎたのだ。  休み時間の終了を告げるチャイムが鳴った。少しずつ教室の席が埋まっていく。五分ほどして頭髪の寂しくなった教授が教室に入ってきて、ノートパソコンを教壇に置いた。社会の何たるかを授業で説くこの教授は、授業開始の時間よりも必ず五分遅れてくると言う長所だか短所だかわからない特徴がある。 「ハイ、それじゃ授業を始めたいと思います」  マイクを通した教授の声が教室に響き、少しずつ聞こえてくる喋り声は小さくなっていく。鞄からルーズリーフを取り出し、スクリーンに映し出された文字を書き写し始める頃には、もう教授以外の声は聞こえない。 「それじゃまず、前回最後に自由に書いて貰ったコメントから、幾つか面白い答えを抜粋して紹介しましょう」  この教授の授業の特徴として、授業の最後に必ず「次回の授業の範囲に関するお題」で一言コメントを書くと言う物がある。「社会とは何か」「心とは何か」……と言った具合に。そして次の授業の最初に幾つか名回答・迷回答を紹介して、その流れで本題に入っていく。前回書いたお題は「人間の定義とは何か」だった。 「そうですねぇ……これなんて面白かったですよ、『人間とは、性を芸術に昇華出来る存在である』。確かに他の動物は、性行為はあくまで生殖としての意味合いしか持ちませんからね。僕の息子も、買い揃えた成人向けゲームの重みで床が傾いてるんですけどね、アレもHに至るまでのストーリー性がちゃんとありますもんね」  教授の言葉に、どっと教室が湧く。いつも合間合間に小ネタを挟むせいか、この授業は不思議と飽きない。それからしばらくは、似たような珍回答の紹介が続いた。 「それじゃ、そろそろ真面目なのも紹介しましょう。……『人間とは、社会の中で役割を持って生活する者である』」  どうやらこの回答から授業が始まっていくのか、プロジェクタに映し出されたパワーポイントにはこの回答が大きく映し出されていた。それをルーズリーフに書き写しながら、ぼんやりと考える。今日の授業が終わったら、久し振りに顔を見に行くのも良い。    ――――――――    記憶を頼りに幼馴染の家を訪ねてみると、そこは既に廃屋と化していた――なんて事は無く、数年前と変わらずに「木下」の表札が掛かっていた。本人が音信不通な割に、その気になれば本当に呆気なく連絡が取れるのだなぁと改めて思う。  インターホンを押し、反応を待つ。空が茜色に染まりつつある夕暮れ、周囲の民家からは夕餉の良い匂いが漂ってくる。昔から塗装の剥げていた壁の角に懐かしさを感じながら空腹を堪えた。しばらくしてパタパタと廊下を駆けてくるスリッパの音が聞こえ、ドアが開けられる。 「あ、お久し振りです。遠藤です」  開いたドアから顔を出したのは幼馴染ではなく、彼女の母親だった。あらー遠藤君久し振りーとおっとりと喋るのは、彼女とは似ても似つかない。立ち話もなんだし、と言って家の中へと招かれた。  リビングのソファに座らせられ、焙じ茶とお茶菓子がテーブルに並べられた。湯気を立てているお茶を口に含むと、柔らかい温かさと懐かしさが全身を巡る。そういえば昔は家に来るたびに焙じ茶を頂いていた気がする。 「ごめんね、今日はあの子帰って来るの遅いから」  申し訳無さそうに苦笑いしながら、彼女の母は言う。恐らく彼女も大学か何かで大変なのだろう。当人がいないのに余り長居をするのも気が引けるので、一時間する前には帰ろうと計算する。  それからしばらくは、自分の近況を聞かれて答えるやり取りが続いた。余り厳しくない運動サークルに所属している事、コンビニでバイトしていて接客が大変な事。ただ、僕が「澄子はどうしてますか」と聞いても、曖昧に笑ってはぐらかされるだけだった。 「遠藤君さ、大学の授業ってどんな事するの?」  二杯目の焙じ茶を飲み終えた頃の質問だった。マスコミ志望で社会学やってるんですよ、と言いながら、鞄からノートを取り出した。あれこれ口で説明するよりも、現物を見せたほうが正確に通じそうだったからだ。彼女の母はノートを手に取り、興味深そうに読み始める。それからしばらくは、ノートをパラパラと捲る音だけがリビングに響いていた。    ふと、彼女の母の、ノートを捲るその手が止まった。テンポ良く続いていた紙を捲る音が唐突に途切れ、何かそこまで見入る記述があったのかとぼんやり部屋を眺めていた視線をそっちへ向ける。 「『人間とは、社会の中で役割を持って生活する者である』、かぁ……」  彼女の母は、何故かとても悲しそうな顔で溜め息をついていた。けれどそれも一瞬の事で、またすぐに普段の微笑みに戻ってノートを閉じる。返されるノートを受け取りながら、僕は喉まで出掛かっていた言葉を飲み込んだ。  ――彼女は。澄子は今、どうしてるんですか。  それはつい先ほど投げかけた疑問だったけれど、今はさっきとは違う点が一つある。さっきは単純に近況を聞き返す意味だった。しかし今は自分は彼女の母の表情から、もしかしたら彼女が何かの壁に突き当たっているのかもしれない、と。漠然とながら確かにそう直感している。  けれども彼女の母は、ただただ首を横に振るだけだった。どうにも納得が出来ない僕を帰らせたかったのか――或いは気遣ったのか。そろそろ帰ったら、なんて帰宅を促す。そして僕にはそれを覆すだけの理由も度胸も無かった。……本当に?  今日はわざわざありがとうね、と言う声を背中で受けながら考える。唐突に連絡が取れなくなったから心配してるんです、と言えば彼女が帰ってくるまで待たせてくれたのではないか。どうしてそれを言葉に出来なかった?  家へ帰る道を歩きながら考える。本当に自分は彼女に会いたかったのだろうか。彼女が尚更自分の手が届かない所に行ってしまっているのを、内心恐れていなかっただろうか。小さい頃から雲の上の存在だった彼女は憧れだったが、同時に認めたくは無いがコンプレックスでもある。どれほど努力しても彼女には届かないと、ずっと尊敬と悔しさが同時に渦巻いていた。  彼女の幼馴染である――所詮は幼馴染でしかないと言う臆病な自尊心と、彼女には遠く及ばない――そんな自分より遥かに高みにいる存在と関わりがあると言う尊大な羞恥心。胸の中で混沌と渦巻く二つの感情は、しかし混ざり合う事は無い。水と油のように反発し合って、ちょっとしたきっかけで腐臭を撒き散らしそうになる。    ――――――――    週末明けて再び学校が始まって、僕は今まで通りの日常に戻る。これまでと同じように講義を受け、サークルで汗を流し、バイトで理不尽な客に頭を下げる。それは変わらないサイクルで続く。  けれどそれまでと全く同じように動いていたかと言えば、そうではない。講義を受けていて、シャーペンを動かしても内容は理解しているわけじゃない。サークルも体と頭が別々に動いている。客に対してどんな粗相をして何で頭を下げているのか、それも理解出来ていない。  空虚なのか疑問なのか焦燥なのか、それすらもわからない。彼女に会えばスッキリすると思っていた。久しぶりに顔を合わせて飯でも食べて、彼女の愚痴を聞いて、自分の下らない冗談に呆れた顔で笑ってくれればそれで安心すると。  けれどあの日、彼女の家を訪ねて得る事が出来たのは彼女の母の困ったような表情だけだった。彼女が今、どこで何をしているのか。それすら曖昧な苦笑いにはぐらかされて、聞く事は出来なかったのだ。  それからと言うもの、僕の内面における彼女の占める割合は確実に増えた。それまではただ単に連絡の途絶えた幼馴染が気にかかっていただけだったのが、ハッキリと今どうしているのか知りたいと思うようになった。かつての自信に満ち溢れていた彼女が、どうして母親にあんな複雑な表情をさせているのか。同じ空間を共有していた頃は、こんなに深く考えた事は無かった。  ――『知らないよ。あんだけ大口叩いてたんだから、早稲田とか東大でも行ってんじゃないの?』  誰かが言っていた言葉を思い出す。早稲田や東大は自分たちからすれば「どこかの頭の良い人が行く学校」でしかない。だから自分たちにとって彼女は「どこかの頭の良い人」とイコールであって、かつ「彼女ならどうにかなってしまうのではないか」とも思っていた。  本当に、彼女はそんな風に万能で非の打ち所の無い人間なのだろうか。  全く弛みの無いように張った糸はしっかりしているように見えて、少し強く力を加えると呆気なく切れる。自分を強く見せようと虚勢を張り続けて、自分は出来ると暗示をかけ続けて、それでどうしようもない壁に当たってしまった時。積み重ねた自己イメージと現実とのギャップの間で、例えば自分ならどうなってしまうのか。自分を保っていられる自信は、無い。    けれどそれは、彼女を知るだけで理解していない自分にはどうしようもない。いや、知っているかどうかさえ危うい。僕の中の彼女は、年端もいかない幼児期から、連絡の途切れた三年前までの「ただの幼馴染」だ。今現在の「木下澄子」がどのように考え、行動しているのかは全くわからない。  だから今の僕に出来る事と言えば、ただ「一刻も早く会いたい、会って話がしたい」と焦る事と、彼女が今まで通り強く生きられているように――自分の中で作り上げた彼女の虚像が崩れないように――祈るだけだ。    ――――――――    その日はいつもあるバイトもたまたまシフトの都合で無くなり、サークルも早めに終了となって、本当に久し振りに真っ直ぐ家に帰る事になった。  普段学校を出る時間にはとっくに沈んでいる太陽が、まだ西の空に残って茜色に空を染めている。懐かしさと新鮮さが入り混じって、何て事の無い風景なのに妙に感慨深い物がある。電車に乗り込む人も、普段見覚えのある人達とは違う。いつも優先席の隅でふんぞり返っている爺さんの定位置は、今日は本を読み耽るサラリーマンの物だ。化粧の濃さが尋常ではないOLの代わりに、地味な眼鏡の女子高生がいつもOLがしているように発車直前に駆け込んでくる。  時間がほんの少しズレただけなのに、こうも世界は違って見える。それこそ、まるで別の世界に迷い込んでしまったかのように。  だから、降りた駅の人混みの中で不思議と心惹かれる後姿があっても、それは自分が別の世界に迷い込んでしまったからだと思って違和感は覚えなかったのだ。  恐らく、それは自分の全く知らない人だ。細身で背が高くて髪の長い女性なんてどこにでもいる。この駅を使う人に絞ったって、その条件に当てはまる人なんて幾らでもいるだろう。  だけれど僕には、病的に色の白い腕が、自信無さ気に歩く後姿が、深く被った帽子から伸びる枝毛混じりの黒髪が。記憶と全く違っていても幼馴染だとしか思えなかった。理由なんて無い。直感で、気配で。今目に留まった女性は間違いなく幼馴染その物だと感じたのだ。  気が付けば後を追いかけていた。改札を抜け、駅を出て少しずつ人が減っていくけれど、距離を詰める事はしなかった。声をかけるのが怖かったと言うのもあるし、もし別の人だったら恥をかいてしまうと冷静な部分で考えていた節もある。ただただ距離を詰める事も話す事もせず、後を追いかけ続けた。  日は少し前に沈んでいた。うっすらと星が見え掛ける程度に暗くなりつつある街は、駅前商店街の出口に近づくにつれて段々と明るさを失って寂しい物になっていく。  商店街のアーケードを出る直前になって、追跡対象の女性は歩くスピードを落とし、やがて立ち止まった。もしや気付かれたかと思ってビクビクしていると、どこからか聞こえてくる悲痛な叫び。どこから声がしているのかと辺りを見回せば、親を見失ったのか、はぐれチビっ子がママ、ママと今にも泣きそうな声で親を呼んでいた。  思わず目の前の女性に目を遣ってしまう。もし昔の彼女だったら、きっと子供に声をかけて一緒に親を探すくらいの事はしていた。目の前の女性が彼女なら、ここで子供を見捨てて行くわけが無い。女性は顔を子供に向け、少しだけうな垂れて――  ――そのまま、歩き出してしまった。  おかしい。この女性は彼女ではなかったのだろうか。いや、でも子供に関心は示した筈だ。でもそれなら、気付いた上で関わり合いになるのを避けたと言う事で……。  彼女だと言う直感と目の前の現実とのギャップが在り過ぎる。結局は腑に落ちない思考をあれこれと整理し続けながら、歩き出した女性の後を引き続き追いかけた。早足になりながらアーケードを振り返ると、高校生らしき制服の女の子が泣き始めている子供に声をかけていた。混乱と疑念でカオスと化した胸中に、新たに罪悪感とデジャヴとが加わって眩暈を起こしそうになる。    アーケードを出た女性は、確実に彼女の家の方へと向かっていた。彼女の家は駅からバスに乗れば五分とかからず着くが、歩くと三十分弱は要する。大通りを避けて入り組んだ住宅街の中を抜けても、それは大して変わらない。  女性は大通り沿いではなく、住宅街を通り抜ける道を選んだ。時計の短針は七を少し過ぎた辺り。すっかり日は沈みきって、光源は太陽から家々の電灯へと完全に移行している。  やがて彼女の家が見えてくる。女性は安心したように足を速める。確信した、目の前の女性は間違いなく彼女だ。  けれどここまできて、僕は新しい壁に突き当たった。彼女がいる事は確認した。けれど、その後どうすれば良いのだろう? 声をかけてから何を話せば良い? 急に連絡が途切れた事を咎めるべきなのか、何事も無かったかのように近況を話せば良いのか。 「澄子」  結局は考えが纏まる前に言葉が先走ってしまった。渇いた喉から滲み出た彼女の名前は、しかし懐かしい感覚を伴って夜の空気に響く。  彼女は突然背後から声が聞こえたのに驚いたのか、自分の名前が呼ばれた事に驚いたのか。一瞬背筋をピンと張り詰め、足を止めてゆっくりと振り向いた。後姿から段々と横顔が見えてきて、そして帽子に隠れた目と目が合う。  突然、弾かれたように彼女は駆け出した。まるで突如住宅街に出現した猛獣から逃げ出すかのように、動揺や恐怖を隠そうともせずに家へと飛び込む。彼女の母の慌てた声と階段を騒がしく駆け上がる音、何処かの部屋のドアが勢い良く閉じられる音がした後、夜の住宅街は数秒前までの静けさを取り戻した。  ――自分は何か、とてつもなくマズい選択をしてしまったのではないか。  まるで一瞬だけ台風が過ぎ去ったかのような、急激な喧騒と静寂。静かな夜の闇の中で点いたり消えたりする街灯に照らされながら、僕は混乱も疑念も忘れ、ただ呆然としていた。ゆっくりと家の扉が開かれ、そこから彼女の母が顔を出したのは、それからどれくらい経った頃だっただろう。 「……そっか、遠藤君か」  扉から顔を出しながら、彼女の母は呟いた。何かに納得したようにも見え、何かを諦めたようにも見える。ほう、と小さく溜め息をついてから、彼女の母は僕に向かって手招きした。蛾が明かりに吸い寄せられるように、僕は家の中へと入る。 「あの子ね、きっと凄く色んな意味で動揺してると思うの。話、聞いたげて」  玄関で靴を脱ぎながら言葉に耳を傾ける僕を、彼女の母は憂いを孕んだ笑みで見ていた。正直、全く状況が掴めてない。どうして彼女が僕の顔を見て逃げ出したのか、どうして彼女の母に話を聞いてやってと頼まれているのか、駅に着く前には考えもしなかった壁が目の前にいきなり現れて、正直わけがわからない。  それでも僕がゆっくりと階段を上がっているのは、きっと彼女が心配だからだろう。一緒にいる時には独りの彼女に助け舟を出す事もなく、メールが届かなくなったら一人で不貞腐れて連絡を放棄して、勝手に自分と彼女を比較してコンプレックスに悩む。彼女にとって、きっとこれほど迷惑な幼馴染も無いだろう。  それでも、否、だからこそ。今彼女が何かで苦しんでいるのなら、今までのお返しの分も纏めて力になりたいと思った。  最後に入ったのはいつだったか。階段を上がって、一番奥の部屋。深呼吸をしてから、その扉をノックした。 「……澄子?」  返事は無い。反応も無い。それからしばらく廊下にはただ、僕がドアをノックし続ける音と、僕が彼女を呼ぶ声だけが響く。  それがどれ程続いていたのか、記憶は定かでない。ただ、数分だったか数時間だったかそれを続けた頃に、ドアの向こう側に気配を感じられるようになった。多分、彼女がドア越しのすぐそこに居る。長い間忘れていた彼女の気配を肌で感じ、しかし目蓋の裏に焼きついている彼女の表情は、たかだかドアノブの付いた木の壁一枚のせいで目にする事が出来ない。 「そこにいるの?」  それでも返事は無い。壁越しに感じる気配は、そこに居るにも関わらずに呼吸音すら押し殺そうとしているようだった。  やはり自分は拒絶されているのだろうか、いやそれならまず近づいてくる事も無いだろう、或いは今こうして彼女の部屋の前に居る事自体が全て嘘で、自分は病院で「もしかしたら、その幼馴染とはアナタの想像上の存在なのではないでしょうか」などと言われているのかもしれない。自分を鼓舞しているのか、現実逃避をしたがっているのか、自分でも自分が良くわからない。 「え……っと、久しぶりだね」  けれど、わからないならわからないなりにアドリブに任せてみるのもアリではないか。それは何ら根拠の無い、吹けばいとも簡単に飛んでいってしまいそうな、詭弁にもならない出任せだった。  それでも一度話し始めてしまった物はどうしようもない。たとえ彼女がドアの向こう側で耳栓をしていたとしても、それを僕は知る由も無い。でもきっと、多分、恐らく。彼女が聞いていてくれる事を願って、僕は取り留めも無い世間話を始めた。  最近読んで面白かった本、部活仲間の修羅場、コンビニ弁当はどのメーカーが美味しいか。どうして電話を変えたのを黙っていたのかだとか、今何をしてるのかだとかは聞かなかった。聞けなかったと言う方が正しいかもしれない。それら疑問に思っていた事が、ひょっとしたら今部屋に閉じこもっている彼女と関連するのではないかと思うと、それらがどうしようもないタブーに思えたのだ。 「それで、えっと……何が言いたいかって、セブンイレブンはいい加減suicaを導入するべきで……」  けれどそれほど語彙も話題も多くない僕は、喋り始めて三十分もしないであろう内にネタが尽き、段々と「えっと」や「だから」で時間を稼ぐ事が多くなってくる。けれどそんな短時間で続きを考えられる程頭の回転も速くないから、廊下にはしばしば重い沈黙が訪れる。 「……うん、そういう事なんだよ」  何が「そういう事」なのだろうか、言った僕自身でさえわからなかった。あらゆるネタと言うネタを全て絞りつくした脳味噌は熱暴走を起こしかけていて、ラジオのパーソナリティでもないのにひたすら喋り続けたせいで喉がヒリヒリ焼け付くように痛い。沈黙が嫌で、けれど話したくても話せなくて、どうしようもなくて僕はドアに背中を預けてもたれかかった。ドア越しに心音が伝わってくるのを想像してみたけれど、僅かに体が涼しくなるだけだった。  そのうち、本当に彼女がこのドアの向こうにいるかどうかすら疑わしく思えてくる。反応も無いし、無駄な時間を過ごしただけなのだろうか。彼女の声が聞こえた気がしたのは、そう考え始めた時だった。 「三郎は、優しいね」  鼓膜を揺らすのは、間違いなく彼女の声。数年間は直接聞いてもいなかったのに、耳に届いた途端に今までの記憶が潮騒のように蘇ってくる。  ドアから離しかけた背中をもう一度もたれかけて、どんな些細な声も聞き逃すまいと耳を澄ませた。 「私も、少し話して良いかな」  肯定の返事をしようと思ったが、喉の痛みが急に強くなって声が出せない。見える筈は無いとわかっていたけれど、黙って首を縦に振った。    ――――――――    何から話せば良いかな。今まで三郎が話してる間に何話そうか考えてたんだけど、結局何も考えが纏まらないうちに話終わっちゃったね。ダメだよ、それじゃ。  ――そうだね、まずは謝らなきゃね。いきなり連絡しなくなって、ごめんなさい。ケータイ繋がらなくて怒った? それとも連絡しようだなんて思わなかった? ……そっか、そうだよね、毎日連絡くれてたもんね。私が一週間メール返さなくても、三郎は絶対に半日経てば返信してくれたもんね。  ケータイね、解約したんだ。何でか……って、もう誰とも連絡取らないし、取る必要も無いからだよ。親以外に一人しかアドレスが無くって、その一人との連絡すら拒否したら、もう月に一万円も払ってもらうのが馬鹿馬鹿しくてね。  他の友達は、って、一番良く知ってるでしょ、私が嫌われてたの。変な話だよね、私悪い事なんて何もしてなかったのにさ。周りが自分の努力不足を棚に上げて嫉妬してるだけで、私はずっと孤独な生活を送らなきゃいけなかったんだよ。  ……違う、別に三郎が謝る事じゃないの。しょうがないじゃん、私を庇った挙句に目を付けられてイジメなんかされたら馬鹿馬鹿しいよ。    受験勉強に専念するって言ったのは、本当だよ。どうしても入りたい大学があったの。そのためには今から頑張んなきゃダメだ、って思ってあのメールを送った。もう少し柔らかく言うべきだったかな。  それから家でも学校でも勉強しまくって毎日生活してた。学校じゃ成績トップだったし、模試だって何度も何度も解き直して絶対大丈夫だと思ってた。  結果? 惨敗だよ惨敗。いざ試験が始まったら何もわかんなくなっちゃって、前日まで完璧だった英単語も、指が勝手に動くくらい解き慣れた数学の図形も、模試で間違えた事の無い漢字や熟語だって。全部が全部ゲシュタルト崩壊したみたいに頭から抜け落ちて、ずっと何も書けずに頭抱えてた。  何であんな風になっちゃったんだろうな、って今でも思うんだけど。私は本当にその大学に入りたかったのかな?  すっごくレベルの高い大学でね、現役で入れる人なんて全体の何割もいないの。だけどそんな学校じゃないと、今まで私を馬鹿にし続けてきた奴らとまた一緒になっちゃう気がして。だからそんな奴らに差をつけたい一心で頑張ってたんだけど、じゃあ入った後に私に何が残るんだろう、って試験中に脳裏を掠めちゃったんだと思うの。  とにかくレベルの高い、絶対に誰も追いつけないような所に行きたいってばっかりで、行った先に自分の望む物が何も無いって、凄く怖いし滑稽だと思うの。私は自分を馬鹿だと思ってるよ。いつだか私を馬鹿にした奴らよりも、もっと馬鹿。  滑り止めもね、受けなかったんだ。もし滑り止めに行ったりしたら、絶対にまた私は独りになっちゃうもの。絶対に私の足を引っ張る奴らがいるもの。  だから私は何処にも受からなくって、もう何もかも考えるのが嫌になって、二次募集の願書とかも纏めて捨てた。家から出たら誰かに馬鹿にされる気がして、最初は家どころか部屋からも出られなかった。だから、そんな私を知ったら嫌われると思ってケータイも解約したんだ。  今までずっと自信満々で、勉強だって運動だって人一倍頑張ったのに、その結果が高卒ニートだもん。嫌われないと思う方が不思議だよ。私は私が嫌いでたまらないし。    だから、家を訪ねて来てくれたって知った時は驚いたよ。私が一方的に拒絶して突っ撥ねたのに、どうしてわざわざ家まで来てくれるのかなって不思議だった。  反面、物凄く怖かった。訪ねてきた時に家にいなくて本当に良かったと思う。……最近はね、図書館とかに行ってずっと本読んでるんだ。お母さん達も心配してたけど、家の外に私が出ただけで喜んでくれてね。やっぱり私、ダメな子なんだなって思っちゃった。  それで、帰ってからお母さんが三郎と何を話したか教えてくれたんだ。社会学なんて凄いじゃん。ちゃんと自分のやりたい事見つけて、それに向かって努力してるんでしょ? 私なんかより数段上だよ。  でも、ノートに書いてあったって言う一文は少し考えさせられたかな。『人間とは、社会の中で役割を持って生活する者である』だよね。お母さんが話す時、言い淀んでたのが妙に納得したよ。  社会の中で役割を持つのが人間なら、私はもう既に人間じゃなくなってるんだよね。  ……違うって、違わないよ。いつから人間じゃなくなったのかな。大学に落ちた時かな。それとも小学校で仲間はずれにされ始めた頃からかな。生まれた時から既にそうだったのかもね。  嫌だな。人間じゃないのは、嫌だ。何でか、って、だってそしたら三郎は私の友達でも幼馴染でもなんでもなくて、例えば三郎が良く見かける犬を撫でてやってるだけみたいな、それだけの関係になっちゃうじゃん。そんなのは、嫌だよ。  だから、このドアも開けない。私はもう人間じゃないんだから。ただの動物になった私なんて、見て欲しくない。きっと今の私は酷く醜いから、その方がお互いのためなんだよ。  私みたいなのに優しく出来るんだから、きっともっと気に掛けるべき人がいるはずだよ。だから私の事は綺麗さっぱり忘れて、明日からまた楽しく過ごしてください――    ――――――――    それだけ話して、また彼女は沈黙した。静まり返った廊下は、空気の重さがさっきの比ではない。  これで彼女が嗚咽の一つでも漏らしていたのなら、ドアを蹴倒してでも彼女に直接何か言葉をかけただろう。けれど、声色からはそんな様子は微塵も見えなかった。ただただ深い憂いと悲しみに満ちた独白を受け、僕は考える事を放棄したくなる。  彼女が「自分は人間ではなくなった」と言った時に、僕は何が言えただろう。ただ小さく、それは違うと呟いただけだ。心の奥底で、彼女の言い分を理解してしまったのだろうか。彼女は本当に人間なのかと、一瞬でも考えてしまわなかっただろうか。  でもそれはやっぱり違う。理解は出来ても納得はしたくない。今こうやって僕と対話していたのは間違いなく人間としての彼女だし、過去に傷つき、悔やんでいるのも人間としての彼女だ。動物なんかである筈が無い。  だけれどそれを言葉で表現する力は、僕には無かった。言えば全てが偽物になってしまう気がしたのだ。傷つく彼女を助ける事もせず、時には無意識に傷つけもしたであろう自分に、果たして彼女を助ける言葉は紡ぎ出せるのか、と。 「……アドレス、昔のから変わってないから」  だから僕が言葉に出来たのはその一言だけで、きっとそれに彼女は頷きはしなかっただろう。恐らくメールも電話も来ない。搾り出した勇気も、結局は話を切り上げるだけの言葉に終わる。  ドアから背中を離し、階段を一段ずつ踏みしめるように降りる。階下には彼女の母が苦しい笑顔を作っていた。頼んで水を一杯貰った後、僕は彼女の家を後にする。小さい頃は幾度と無く言われた「また来てね」は、今日は聞こえなかった。  自宅へと歩き出す。変わらず点滅を繰り返す街灯のスポットライトを浴びながら最後に一度だけ彼女の部屋を見ると、閉じられた厚いカーテンで何も見える事はなかった。なかったのだが、そのカーテン越しに何かが光った気がして、僕は慌てて目を逸らして家へと歩き出した。    ――――――――    彼女の家で彼女の告白を聞いた時から一ヶ月が経った。その間、僕は彼女の家に近寄る事すらしていない。彼女からメールや電話が来る事も無かった。  連絡と言う連絡が全く無いまま、半ば抜け殻のように呆然としながら僕は日々を過ごした。形容し難い喪失感が常に付き纏って、何をするにもやる気が起きない。学校もサークルもバイトも、もはや惰性で続けていたと言っても良い。  喪失感と言っても、良く考えれば僕は何も失っていないようにも思える。彼女の家に行く前だって彼女との連絡は無かったし、心的ショックで学校を休学しているわけでもない。  じゃあ何が失われたのかと考えれば、それは他でもない彼女だろう。直接的に僕が何かを失ったわけじゃない。彼女が自信や生きる目標を失ってどうしようもなくなってしまって、そして恐らく彼女に一番近かった僕は彼女を失ってしまったと感じている。記憶の中の彼女はいつも自信に満ち溢れていて、高々と掲げた目標に向かって努力している人間だったからだ。  そして僕はその喪失感を埋める術を知らない。目の前にいきなりナイアガラの滝のような空洞が出来たら、それに土を被せて埋めようだ何てとても思えやしない。  そうして感情がずっとビジー状態のまま、一ヶ月だ。一度再起動した方が早いかもしれない。現実逃避しっ放しの頭じゃ、本当にどうにもならないし何も出来やしない。  じゃあどうやって再起動するのか。午後から授業のある朝、頭のかろうじて思考出来る部分でぼんやりと考えながら駅へと歩く。再起動するには電源ボタンを押す必要がある。じゃあ僕の電源ボタンとは何ぞや。  何の気なしに腕時計を確認すると、このまま真っ直ぐ大学に向かっても一時間ほど時間が余ってしまうような時間だった。最近は時間配分までもがどうでも良くなって来ている。とは言っても空き教室で一時間も携帯電話を弄くりまわす気にもならないので、適当に歩き回って時間を潰す事にした。  二十年近く住み続けた街。最近はゆっくりと歩く事も無かったから、その全てが妙に新鮮に見え、またその全てが今はどうでも良い。  焼きそばパンの美味しいパン屋。ボール遊びが禁止されているのにも関わらず野球やサッカーで遊んだ広場。幼い故に純粋な悪意が残酷に感じた小学校。もう記憶の隅で風化を待つばかりの場所だ。  けれど、学校の裏に回って公園に足を踏み入れた時。視界はセピア色に染まり、聴覚が失われたかのように世界の音は消える。縫いとめられたかのように足は動かず、氷付けになったように体は動かない。  僕の双眸は、ブランコも滑り台もない殺風景な公園の、その中心にある一つの砂場を捉えていた。気弱そうな男の子が一人、へたり込んで泣いている。少し離れた所では泣いている男の子よりも少し大きい男の子と、気の強そうな女の子が睨みあっていた。  間違いない、これは昔の僕と彼女だ。そう直感した。何故自分がその風景を今見ているのか、それはどうでもよかった。タイムスリップでも幻覚でも何だって構わない。それより僕が気になったのは、大きい男の子と睨み合っている女の子が、まるで恐怖を無理矢理抑えつけているかのように震えている事だった。  やがて喧嘩が始まる。取っ組み合って慌てて駆けつけた親に引き離されて、スコップを取り返した女の子は、震える手で男の子にそれを手渡す。男の子は女の子の震えに気付く事も無く、ただ差し出されたスコップに笑って「すみこちゃんありがとう」と言うだけだ。女の子は、緊張の糸が切れたかのように母親の元に駆けて行き、泣き始める。  そうだ、彼女が無敵の完璧超人なわけがない。それは僕が自分の中で勝手に作り上げたイメージで、知らずに僕は彼女にそれを押し付けていた。無意識か考えた上でなのかは定かではないけれど、彼女はそれに応えようとして、ひたすらに強くあろうとしたのだろう。そしてそれが何を意味するのかわからないほど、僕は鈍感ではない。今になってそれに気付く大馬鹿者ではあるけれども。    ――彼女を壊したのは、他でも無い僕だ。    気が付けば、世界に色が戻っていた。近くを走る国道から騒音が聞こえてくる。よろめいた拍子に足も自由に動いたし、体も氷付けどころか、血の巡りが早すぎて熱いくらいだ。  そのまま公園から飛び出し、駅とは反対に走り出した。向かうのは勿論、彼女の家だ。  どうして今まで、彼女が強がる理由を考えなかったのだろうか。僕が彼女の強さを信頼しきって背中を預けている間、彼女はずっと僕の重みに耐えていたのに。 役割を持って生きるのが人間と言うなら、真に動物と呼ばれるべきなのは彼女じゃない。僕だ。受けるばかりで与える事をしてこなかった僕は、動物どころか彼女を苦しめる病原菌じゃないか。  限界を無視して体を酷使し続ける。不恰好に噎せ返りながら朝の街を駆け抜ける僕は、きっと傍から見たらメロスの様に見えるだろう。だが決定的にメロスと違うのは、セリヌンティウスが磔刑に処されているのが自分のせいだとはまるで気が付かなかった点だ。  住宅街を走り抜け、血を吐きそうになりながら彼女の家に辿り着く。鞄を放り投げて扉を叩く。掠れた声で名前を呼ぶ。けれど反応は無い。それどころか、誰かが居る気配すらも無い。 「朝からどうしたんですか?」  隣の家の住人が、不審そうに声をかけてきた。確かに事情を知らないならば、僕は不審者極まりないだろう。荒く息を吐きながら、僕は一言理由を告げる。 「いえ、この家の、友達に、話があって」  隣人は尚更不審そうに眉を潜める。可哀想な人を見るような目で僕を見つめる。 「そこの家族なら、一週間前に引っ越したけど」  ああ、この人は一体何を言っているのだろう。引越しとは何なんだ。どうして引っ越す理由がある。  震える膝を手で押さえながら一度インターホンを鳴らして、気付いた。一週間前にはあった表札が、今はかかっていない。 「そこの家、娘さんが引き篭もりだったんだけどね」  隣人の目は、不審者を見る目からいつの間にか、同情の眼差しへと変わっていた。それももう、どうでもいい。 「なんでも娘さんが『もう一度、新しくやり直したい』って言ったんだって。でも嬉しそうと言うよりは、寂しそうだったねぇ」  そうか、彼女はそんな事を言っていたのか。それは良かった。ところで彼女は何処だ、どうして出てこないんだ。一言じゃすまないくらい、謝らなければいけない事があるのに。 「それもそうだよね、長いこと住んでた街だもんねぇ」  もう隣人の声は耳に入ってはこなかった。霞む視界には何も映らない。どんな音も鼓膜を揺らさない。ただただ呆然と壁にもたれかかって、許容量をオーバーした現実を拒絶し続ける。  それからどれ程時間が経ったかはわからない。気がついたら西の空が赤く染まっていて、僕はフラフラと鞄を手にして自宅へと歩き出す。  結末は再起動どころか、強制終了だった。    ――――――――    思い出の最後のシーンから戻って来た頃には、気がつけば僕は冷めきったカップを両手で包み込んで泣きそうになっていた。頭の中を靄が覆っている。  腕時計に目をやると、時刻は六時半を過ぎている。ほんの少しコーヒーを飲んでリフレッシュするだけだった筈なのに、回想を始めるといつもこうだ。その癖ムリヤリ仕事をしようとしても効率が全く上がらない。タチの悪いトラウマだ。  早く仕事に戻らなければ。残ってたコーヒーを胃の中へ流し込み、立ち上がって大きく伸びをする。さっきよりも傾いた太陽が、より深い朱色を空に映し出しているのが見えた。目に染みる。ポケットティッシュを取り出して目を拭いながら、何の気なしに外を見た。  相も変わらず、外の風景は帰宅する企業戦士ばかりで味も素っ気も無い。コンクリート・ジャングル。最初にそのフレーズを使った人の発想は、極めて的を射ていると思う。  みんな、自分の事で精一杯なのだ。今日を生きるスペースに、自分以外の誰かが介入するスペースなんてない。だからこのコンクリートの密林には様々な姿と肩書きの動物が住んでいるのだろう。  けれど、だからと言ってそれで過去の自分を正当化したくはなかった。自分はどこまでも人間に憧れるし、人間でいたいと思う。  今でも行方知らずの彼女を想う。彼女は今も、どこかで人間として生きているのだろうか。今ならもう、はぐれチビっ子を見捨てて歩き去るような事も無くなったのだろうか。  そろそろ仕事に戻らないと、本当に間に合わない。けれども窓から身を乗り出して下界を眺めたまま、体は動こうとしないのだ。溜まった仕事からの逃避? そうではない。  ふと、道を歩く中年の一人が躓き、投げ出した鞄からは書類が飛び散った。周囲の人達は驚きこそすれ、足を止めて拾い集めようとはしない。障害物を見るような目で一瞥して、迷惑そうな表情を浮かべて通り過ぎて行く――かと思ったら、そうではなかった。  一人が遠くに舞った書類を拾って手渡し、それを見た他の通行人も散らばった書類を拾っては中年男性に手渡す。瞬く間に散らばった書類は元通りになって、最初にぶちまけたサラリーマンはしきりに頭を下げて歩き出した。そしてそれを僕は、まるで白昼夢でも見たかのように呆けて見つめる事しか出来なかった。  が、いつまでも呆けているわけでもない。今自分が目にした光景がただの些細な日常のひとコマで、だからこそ綺麗な物なのだと理解し、仕事に戻ろうとデスクへと足を向けた。    ジャングルは少しずつ拓かれようとしている。そして彼女もどこかで、そのジャングルの開拓民として生きている。  心のどこかでそう思えた自分がいて、僕は山積みの仕事に向かい合うのが苦では無い気がした。頭の中にかかっていた靄は、幾分綺麗に消え失せていた。